教室コラム『外科医をとりまく時代の変化についての雑感』を公開しました

時の経つのは早いもので外科医になってからはや28年が経過してしまいました。京都大学の外科には研修医として1年間、大学院生として4年間、留学前に2年間、留学後に14年間お世話になり、トータル21年、かれこれ外科医人生の4分の3を京都大学で過ごしたことになります。このたび北野病院へ赴任することになりました。雑感を述べさせて頂きたいと思います。

この28年間に様々なことが変化したことを実感致します。研修医として歩み始めた頃は朝一の採血、包交、レントゲン撮影だけでまず一仕事。仕事終わりは採血データの切り貼りと点滴作り。今の若い先生はそんなことやったこともないと思います。手術がない日でもそんなこんなで一日がつぶれておりました。空いた時間は研鑽です。外科医はやっぱり手術手技の修練や勉強が好きです。エビデンスよりは経験に基づく伝承が多い領域、今考えると「あの頃はこんなことしてました」的な笑い話がいくつもありそうです。最近になって否定されたあの頃の常識も多く、当時エラそうに言われていたことは何だったの?と思うこともあります。

今や医師に成りたて、いや、医師じゃなくてもスマホ一つで欲しいエビデンスが取れてしまう時代。無駄な(?)ことで時間を取られることもありません。一方で多くの情報がすぐに手に入る時代だからこそ、リテラシーが求められます。論文に書かれてある結論を鵜呑みにしてしまい、批判的に論文を吟味することが出来ない若い先生が多いことに懸念を覚えます。文句のつけようがない研究もあれば、多くのその他の研究のように、慎重な解釈を要するものもあります。最近は多くのガイドラインが出版されていますが、微に入り細に入ろうとすればするほど、少ないエビデンスから何らかの結論を導き出さなければならなくなります。ガイドラインの結論だけを鵜呑みにしてしまうとそこで思考停止に陥ってしまい、目の前の患者さんに対しておそらく最善ではない治療を選択してしまったり、これ以上研究の余地がない問題であると勘違いをしてしまったりする危険性があります。これはエビデンスレベルの低い研究やガイドラインが悪いと言っているのではなく、リテラシーを持って論文やガイドラインを読むことが重要であることを意味しています。

今の医師は「前述の無駄な(?)こと」に時間を取られることがなくなった一方で、新しいエビデンス創出のために要する仕事の負荷は莫大なものになりました。倫理委員会は序の口、データの信憑性を担保するために監査が必要、監査のためには目の玉が飛び出るような費用がかかります。ディオバン事件をきっかけに作られた法律、臨床研究法のおかげ(?)です。不正を防ぐために作られた法律ですが、臨床研究を行う上で金銭的な面を含む負荷が大きくなったために、かえって臨床研究が行われにくくなってしまうのではないかという懸念を感じます。

日本人は「自分が少しぐらい損をしても」他人の足を引っ張ろうとする国民性とのことです(国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶 加谷珪一 幻冬舎新書)。ズルしたり、楽したりしながらお金を儲けたり、名声を得たりする事に対して我慢がならない国民性のようです。芸能人のちょっとしたことに対する過剰なまでのバッシングもその一環であると感じます。足の引っ張り合いをしている間に、医学界における日本のプレゼンスもどんどん低下していってしまうのではないかと危惧をしております。

もう少し緩い研究環境が提供されても、満ちあふれた玉石混合の研究の中から、「ウソくさい」「この結果からはそんなことまで言えない」ことを見抜く目を我々が備えていさえすれば良いのだと思います。ディオバン事件発覚のきっかけとなったのも(内部告発などではなく)一人の読者の「データが不自然」という指摘からだったのですから。

こんな厳しい環境の中、京都大学肝胆膵・移植外科から多くの発信がなされることを願ってやみません。リテラシーを備えていれば玉石混合上等!」

 

2022年3月17日 田浦 康二朗