教室コラム『京阪鳥羽街道駅』を公開しました
菜の花の中、コーポレートカラーの緑と鶯色の帯をまとった京阪電車がゆっくりとカーブを通り抜け、ホームの端にいる数人の撮り鉄がカメラを向ける。
春の鳥羽街道駅は絶好の撮影スポットである。鳥羽街道駅は、京都と大阪を結ぶ大街道であった鳥羽街道につながる十条通の終点であったことから命名された。東福寺と伏見稲荷大社の両名刹にはさまれているにもかかわらず京阪本線の中では乗降客数が最も少なく、一日乗車人数が1500人前後の閑散とした駅である。最近、鳥羽街道駅は日中以外は無人駅となった。
さて、ここ数ヶ月、この静かな駅がやたらとブリキを切ったりペンキを塗ったりと騒がしい。どうもバリアフリー化工事を行うらしい。国土交通省によると、一日乗降数が1500人を超えるとバリアフリー設置の義務を負うことになっている。最近近くの京都久野病院が改装して繁盛していると聞く。コロナ窩と中之島線の不振で疲弊している京阪電鉄でも新規投資の余裕があると見え、ようやく鳥羽街道駅にもスロープがやってきた。駅舎開業以来112年、車椅子の人はどうしていたのだろうか。
鳥羽街道駅は二線二面で西側の駅舎から階段を降りて線路の下の地下道を通り、下り線のホームに上がる構造になっている。バリアフリー化工事はこれまで階段だけであったホームへの上がりかまちにスロープを併設するようである。もともと、京都側は軌道を起源としていることから、鳥羽街道駅は一両で運行されていた時代の名残でホームの一部が残っている。今回のバリアフリー化工事ではスロープを併設するにあたってそういった下り線の階段の外壁や磨りガラスのはめ込まれた窓の一部を残して新しく屋根を作っている。屋上屋というそしりも受けようが、既存のしっかりした土台を使用して新しい駅舎を建てるのは歴史を感じさせて良いものである。
1994年に外科に入局した当時、大学では膵臓の手術は膵液が漏れるのは当然であり、長期生存の前に、まずはどれだけ合併症無く退院させられるかが目の前の課題であった。担当医は如何にうまくドレンを入れ替えて局所に膵液をとどまらせ、出血に至らないかに日々、頭を悩ませていた。この10年の間、膵液瘻による出血の事例は大きく減った。早期ドレン抜去、膵炎の治療の進歩に伴った積極的な内視鏡的内瘻化の普及が後押しとなっていることは言うまでもないが、ブルンガルト変法やステープラーといった、特別なテクニックを必要としない誰でも簡単にできる手技の普及も大きい。膵液瘻において、膵臓を腫れ物のように扱い、アンタッチャブルであった時代は終わった。しかしながら、腫瘍の切除においては、腹腔鏡、開腹にかかわらず、未だに膵臓の扱いや丁寧な層の剥離、運針といった古くからの基本手技がキモであり、それがかなうことで初めて安全かつ十分な手術ができる。
春の匂いがし始めた頃、新しい駅舎の形が少し整ってきた。線路脇からのぞく苔むしたコンクリートはいい仕事をしている。
増井 俊彦